2012年11月29日

それって残酷ですか?(『小僧の神様』)

最近、読んだ志賀直哉の『小僧の神様』


この本について、この間、アウトプットする、読書会に参加してきました。
(同じ本を読んだ人達があつまり、1チーム8〜10人ぐらいに分かれて
それぞれのチームで本について話あう会)


この本のこの『小僧の神様』について。

あらすじ(ネタばれ含む)は
神田の秤屋で奉公をしている仙吉(小僧)は、番頭達の話で聞いた鮨屋に行ってみたいと思っていた。ある時、使いの帰りに鮨屋に入るものの、金が足りずに鮨を食べることができない仙吉を見かけた貴族院の男(A)は、後に秤屋で仙吉を見つけ、鮨を奢る。しかし、Aに見られていたことを知らない仙吉は「どうして鮨を食いたいことをAが知っているのか」という疑問から、Aは神様ではないかと思い始める。仙吉はつらいときはAのことを思い出しいつかまたAが自分の前に現れることを信じていた。ちなみに本文の十節には「『Aの住所に行ってみると人の住まいが無くそこには稲荷の祠があり小僧は驚いた』というようなことを書こうかと思ったが、そう書くことは小僧に対して少し残酷な気がしたため、ここで筆を擱く」というような擱筆の文が挿入されている。 (Wikipediaより引用)



私のチームで、「なぜ残酷なのだろう」という問いがあって、
私は、読んだ時、わからなくて、なにが残酷なのだろう??
って思っていたので、とても興味深い問いだったし、
他の人がどんな風に思ったのか気になった。


一人の人が

「小僧がAを神様だと思い込んでしまうのが残酷なんじゃないか、
作者も、読者も、他の人も、神様ではないって、わかっているのに、
小僧だけが、一人、神様って信じきってしまうのが残酷なのだと
思う」(ちょっと言い方とか違うかも)

というようなことを言っていらして、わりとそんな感じでまとまった
のですが、私は、それを聞いていて、もし、仮にそういう意味で
残酷だと書いていた(作者が)として、それって残酷なのだろうか??

という疑問がフッと沸いた。


確かに、人に迷惑をかけてしまうようなものの信じ方、
とある宗教にのめりこんで人の言うことが聞こえない、
人を巻き込むとかね、そういう信じ方は、違うと思うし、
なにも見えていない状態をそのままにしておくのは、
残酷かもしれない・・・・


でも、何かを信じることって、もし、その信じていたことが、
違っていたとしても、信じてがんばれるなら、力がでるなら、
何かを心の支えのようにするのって・・・私はいいと思うのだけど。


この小説を読んだ時、昔読んだ、(多分)指輪の話を思い出した。
そのお話は、ある女の人が、人に親切にして、
そのお礼に、願いが(一度だけ)叶えられる指輪を貰う。
主人公は、何かを思うたびに、「でも、こんなこと願いにしたら
もったいない」と思い、どんどん、指輪を使わず、願いを実現していく。
そして最後には、そのまま指輪を使うことなく幸せに自分で願いを
かなえてなくなる。しかし、実は、指輪は、他の人が願いを叶える
ことを聞いていて、使ってしまったので、ただのなんでもない指輪に
なっていたのだ。


そんなお話だったと思う。

全然違う話なのですが、なにか、よりどころにするとか、
なにかを信じるとか、そういう意味で、
気持ち的に同じような気分になったのです。


さてさて、残酷さとは一体なんでしょうね。
そして、残酷だとみなさん思いますか??

posted by キノプール at 21:24| Comment(0) |